セラピストバイブル

僕がセラピストになるまでのいろいろな気づきやエピソードをご紹介していきます。

(1)「どうして自分ばっかり!?」 〜当時の自分が見ていたもの〜 1995〜97年頃

1990年に○○電器に入社以来、僕は台湾・香港といった東アジア向けのインダストリー部材の輸出営業を担当していました。現地の販売会社と日本の製品別事業部(工場)の橋渡し役で、受注作業〜輸出業務、そして決済業務を引き受ける’営業所’というポジションでした。

そこは現地の販売会社のスタッフ(主に現地人)とお客様(主にPC・携帯、電動工具メーカー)とのやりとりを社内の商取引ルールに則り、製品別に事業部へ取次ぎをするような、いわば調整的部署でした。

実はその部署はちょうど僕の入社する一年前までは○○電器貿易として、’独立した商社機能’をもっていたところだったのですが、この会社がグループの親会社に吸収合併される形になってからは、次第に従来独立した’商社’として備えていた機能が少しずつ’一製造業者の一機能’として取り込まれていくようになっていきました。
そのため、商社時代は一商取引ごとに個別に決められていた営業所の利益率も、個別の商取引の状況には依らず一律の利益率に変更になっていました。

(解説:独立した商社機能では、商売の一件一件について担当者が価格見積りをし、それによって営業所自体の利益(=その商売における営業所の貢献度)が決まる)

そのため、”製造事業部 - 営業所 - 海外の販売会社 - 海外のお客様(完成品製造メーカー)”という、一連の商取引の中、営業所は’どんな商取引が成立してもある一定の利益率が確保される’という位置付けになった。(少なくとも僕はそう捉えていた。)

実際の業務では担当の製品も担当のお客様も数多く、とても一つ一つの製品お客様に精通するのには時間もなかったし、それだけの予備知識もなかった。そもそも海外関連部署に配属できたといえども、英会話は素人同然だったし、大学も経済学部(といってもテニス学部のようなもの:笑)なので、電子部品の知識など無きに等しい。加えてパソコン(当時はテレックスだったが)のキーボードに触れることすら入社して初めての体験。それに貿易実務など全く知らない。(これがバブル!)
ただ大学の卒論で’日米不均衡貿易’を選んだ事から何かしら海外関係には興味があった。

あとは体育会テニス部で鍛えられた’気合’なるもので何とか希望の海外関連部署(アジアを希望)に配属できたのだ。おまけに頑固で詳細にこだわる性格。。。今思えば良くやってきたものだ!
(周りの上司や同僚にはかなりの労力を余儀なくしてしまっただろうが。。。ありがとうございます。)

話は横道にそれたが、’どんな商取引が成立してもある一定の利益率が確保される’という立場は、特に製造事業部からかなりいろいろ言われた。「おまえの部署がなければ、もっとお客様に製品を安く提供できるのに。。。」 
これは極端な例だが、決して大げさではない。。。
こんなことを周りの部署から日常耳にしていた。。。

電子部品という理系の回路系のノウハウ、それに商取引の実際を社内ルールの内に納めるということ、さらには海外のお客様の個別の状況を把握するということ。。。「それを完璧にやらねば営業所の、いや自分自身の存在価値がなくなる。。」 そんな思いで毎日を過ごしていたように思う。かなり自分自身にプレッシャーをかけていた。

今思えば、自分自身が自分自身を日に日に追い込んでいたのではないかと感じる。
いつも「どうして自分だけがこんなに頑張らないといけないんだろうか?」 と、ある種悲劇のヒーローになっていたかも? (*当時は’忙しそうに動いていること=仕事をしていること’と思っていた。)
結構、上司や先輩などにもきつい批判を浴びせ掛けていた自分が今では恥ずかしい。。。

でもその時は、「毎日毎日自分が立っている足元を自分自身の力で保たなければいけない」 と思っていた。
「もしかしたら自分の存在価値を最も認めていなかったのは自分自身なのかも?」 と今は思える。 
今ならそういった’自分の周りの出来事、環境、人間関係はすべて自分自身の内面を投影したもの’という風に考えるようにできるのだが。。。(笑)

*「どうして自分ばっかり!?」 と思ったときは、この経験を思い出すようにしている。。。(苦笑)

〜一つ下につづく〜

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(2)「最初の休職期間」 〜SEIVA/矢加部師匠と出会うきっかけ〜 1997年末

この期間は今思い出しても僕にとって今までの人生で最も辛かった時期でした。
上で書いたように、毎日毎日、自分の足場を作るために足元に土を固めていくそのそばから、どんどんその土が崩れていく。本当の事実はわからないが自分ではそんな風に感じていた。

こう書くと周りの人が何にもサポートしてくれなかったかのように感じられるかもしれないが、実際はそうではなく、特にペア(担当顧客別に受発注業務を中心に担当してくれる女性社員とペアを組むのが通例だった。)の女性は、’僕の個人的なやり方(仕事の優先順位)’に合わせてできる限りのサポートをしていてくれたように思う。また係長や課長、そして部長や営業所長などもそれぞれの立場において、僕に対して必要なサポートの手を差し伸べてくれていたのだと思う。

当時は本当に’仕事とは忙しく動き回っていること’と自分の中で頑なに定義していたらしく、’見守る’とか’信じる’とか’様子を見る’とかといった、上の管理者的な仕事のやり方を全くといっていいほど理解していなかったように思う。
ただ、この人は僕の仕事にとって’今、この瞬間、どれだけ(見える形での)サポートをしてくれているか?’ただこの一点が僕の周りに対する見方だったように思う。。。

担当顧客を数十社持っていると、よほど仕事の優先順位をしっかり自分で決めておかないとすぐに仕事がぐちゃぐちゃになる。おまけに担当地域が台湾とか香港とか日本との時差がわずか一時間程度の国ばかりである。だいたい朝から夕方くらいまでは現地からの電話や製造事業部からの電話が頻繁にかかってくる。 おまけに自分自身の仕事のこだわり (といっても大そうなものではない。例えば、’書類の大事な部分はマーカーやチェックをする’、とか’今の仕事に関係のありそうな情報はすべて予めチェックしてから仕事に取り掛かる’とか、、、今考えると???)があるのだ。

そんな仕事のやり方で数ヶ月に一回の海外出張、定期的な製造事業部への出張、毎月の営業数字の管理などなどをしていたものだからとうてい追いつくはずなんかない。
おまけに(これはオフレコだが)自分でためたストレスの発散として、就業中に自分がキャプテンであるテニス部のことをしていたりしている。。。(どうやら’普段人一倍頑張っている(と自分で思っている)のでこれくらいの仕事以外のことは許されて当然だ!’というひとりよがりの論理があった。
当然、テニス部に関わる時間は仕事の時間に食い込み、効率を下げていることにも気付かず。。)

入社以来3年目くらいから少し深刻な精神的な行き詰まり感は感じ始めていたが、まだまだある一定時期に限られるものでなんとかその時期を乗り切れば一年を過ごす事ができていた。
ところが97年の夏ごろからは様子が変で、起死回生を帰して’ハワイにでも行けば楽になるだろう’と貯金をはたいて夫婦でハワイ島のワイコロアビレッジやオアフ島のワイキキビーチなどでゆっくりしようとしたが全然だめ! 
「えっ、ハワイ旅行すら楽しめない状態なのか!?」ショックだった。

時はちょうど日本がサッカーで初のワールドカップ出場となるか?といわれた’ドーハの悲劇’が起こったころだった。何ヶ月も悩んだあげく、自分自身の将来の評価(それまでも特別大した評価ではなかったのかもしれないが?)を半ばあきらめた形で一大決心し、半年の休職に踏み切った。

そのときの上司には申し訳なかったなあと今でも思う。いつかきっちりとお詫びをしたいと思う。
休職の始まりはなんと僕からその上司に送ったEメール一本だった。それも’あたかも自分が会社側の無理解、サポート不足により休職を選択せざるを得ない状況に追い込まれたかのような’文面だった
(後に休職から復帰し、忘年会をしているときにその上司から「辻野、もうこれ破ってもいいか?」と言われた。きっとずいぶんその方を傷つけたんだと思う。きっと自分のところでしたためてくれていたのだろう。その後もいろいろな計らいをして頂いた。本当にありがとうございます。)

休職期間が始まってから約2ヶ月半はほとんど一日中、床に臥していた。心身ともに疲れきっていて身体を起こせない。一日二回の食事のときだけ身体を起こし、また床に着く。そんな生活を繰り返していた。やっと2ヶ月半が過ぎたころ、いつだったか少し外出したときの帰り (月に一回の臨床心理士の先生とのカウンセリングの帰りだったかな?) 、駅の売店で夕刊フジをなんとなく購入した。。。


そこには、’催眠療法?!’’前世療法?!’
「あなたの想念が現実を創っている???」 
「まずは原因のトラウマ探しから?!」 ......


衝撃的だった!今までも精神科や霊感療法など数種の療法にすがって、’なんとかこの心の違和感を解消してくれるものはないのか?’といろいろ受けてはみたが、今ひとつしっくりくるものはなかった
。これはなんとなく’自分のしんどい状況はもともと自分自身から発している’的な療法であるように感じた。
’なにやら自分の知らない新しい価値観があるらしい’なんとなく自分自身でも子供の頃から捜し求めていた種類の価値観のように感じた。
正直良く分からなかったが、なんとなくピンときた!「良し!とりあえず受けてみよう!」
これが現在の師匠、矢加部幸彦氏との出会いである。

 〜一つ下につづく〜

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(3)「新しい価値観の目覚め」 〜目に見えないものと見えるもの〜 1997年末〜99年春

矢加部氏の’スピリチュアルセラピー’のセッションを約5ヶ月かけて12回受けた。
通常60分〜90分のセッションだったと思うが、いつも時間を気にする余裕などなく自分の思いを聞いてもらっていたように思う。最初のカウンセリングの時間が終わるとベッドに横になり、催眠誘導が始まる。身体のリラクゼーションから呼吸法、そして言葉の誘導により少しずつ心が落ち着いてくる。

インナーチャイルド(傷ついた純粋性の癒し)、インナーヴォイス(自分の中の対立する個性の統合)、幼児期退行(幼少時のトラウマの書き換え)、前世退行(過去生からのとらわれの解消)など、様々な アプローチのセッションを受けた。今では当時のセッションの内容はあまり詳しくは覚えていないのだが、解消したい大テーマは’身のまわりの未処理事項との付き合い方’だった。(笑 : 具体的な内容の違いはあれ、このテーマはずぅっと意識していますねぇ〜。)

当時はまるで自分の仕事上の未処理事項が自分を刻一刻と崖っぷちに追い込んでいるような感覚を感じていた。そしてその絶え間ない感覚が’全身の筋肉の緊張’となり、また’胸の中のなんとも いえない窮屈感’となっていた。今、冷静に感じてみると、’うつ症状でかつ、ちゃんとできていない自分を瞬間瞬間責め続けている’ような状態であったように思う。

毎回のセッションに満足していた部分は、’催眠誘導中のなんとも言えない開放感’だった。
矢加部氏のやさしい、ゆったりとした言葉の誘導が自然に僕の意識の深いところに流れ込んで来て、その波長(波動)が’緊張した心と身体をふんわりと和らげてくれる’という感覚だった。
こんな風に、心も身体が包まれたようにリラックスできる状態はあまり記憶には残っていない。
(もしかしたら、赤ちゃんのときに母親に抱っこされているときはそうだったのかもしれない)

矢加部氏のセッションをきっかけに、当時の’SEIVA’というヒーリング&セラピーの会社との関わりが深まってきて、矢加部氏以外のセラピストのセッションもいろいろと受けさせてもらう機会があった
’身体の統合のエネルギーワーク’、’バースビジョン(この世に生まれてきた目的を探る)’、’アロマ占い’、 ’クレニオセイクラルワーク(頭蓋骨・仙骨調整ワーク)’、’フラワーエッセンス’など。
いろいろなセッションに共通するのは、’自分が直面している課題の答えはすべて自分自身の中にある’ということだった。

それ以来、セッションを受ける以外にもそういう内容の本(主に’精神世界’というジャンルだが)に出会うようになった。 「聖なる予言」 「あるがままに生きる」 「波動の法則」 「脳内革命」  「ソース」 「神との対話」 「水からの伝言」 などなど。。。
最近はこの種類の本がたくさんベストセラーになっていますね。「原因と結果の法則」「スピリチュアルな生活のすすめ」 など。
他にも’自分の人生は自分で創造することができる’という内容を書いた本がたくさん目につくところに並んでいる。
例えば自分の物の見方の限界を書いた「バカの壁」 とかも。。。

矢加部氏との出会いから始まった、僕の自分発見の旅はこんなプロローグでした。
その中で最も自分が当時感銘を受けてたものは、

「人生とは’目に見えるもの’がすべてなのではなく、実は’目に見えないもの’という (大いなる)エネルギー(気)が事実として存在している。」

ということである。
最近の物理学、特にニュートリノ研究などでもこれは科学的に証明されていることではあるが、’目に見えないもの’だけに、日常の生活ではなかなか実感しにくいものですね。

’見えないものを見えるように、感じられるように表現していく’ もしかしたらこれが今のOffice CHUの活動の原点であるような気がする。

〜約半年間の休職を経て、1998年4月2日の営業所の花見の日に復職(場所取りをした!)、’営業管理’担当というリハビリ期間を経て、1999年2月に企画部に異動。 と同時にセラピストの修業を始め、いろんな経緯を経て 退職を決断する2度目の休職(1999年末)へと至る。

〜一つ下につづく〜

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(4)「新しい人生の流れ」 〜プロのセラピストへの修業のはじまり〜 1999年春〜

1999年の春にある重要な出会いがあった。ある出版社主催のセミナーに参加したときだった。
その日は琵琶湖沿いでの会社のテニス部の合宿が終わった日で、疲れきった身体をおして車で京都に向けて移動していたのだ。
もともと時間の計算がまずいのと、ひどい渋滞が相まってセミナーを一時間近くも遅刻してしまった。(たしか二時間程度のセミナーだったと思う) そのセミナーは、師匠の属していたSEIVAで 同じクライアントとして出会った友人の男性Oさん の強い勧めで参加を決めたのだが、今振り返ってみてもどうしてあの時、彼が何度も何度も電話やFAXで僕がこのセミナーに参加するように督促してくれたのかが不思議だ。(それ以前も、それ以降もそんなことは一度もないのだから。。。)後でわかるように、この彼の幾度にもわたる督促が、今後の展開にとっての大きな転機となる。

ちょうど、遅刻したお陰(?)で同じく遅刻して最後列に座っていた女性Kさんとご縁ができた。セミナー後、歩きながら話していると、彼女は’ホロスコープ’というものに詳しいらしい。
こちらからお願いするかしないか、彼女から、「辻野さんってセラピストが天職ですよ!」との一言。
「 ! 。。。」 なぜならちょうどその頃は’セラピストとしての修業を本当に始めるのかどうか悩んでいたからだ。 
彼女は後日、詳しいホロスコープの解説書と手紙をくれた。「水が4つあります。優しい方ですね。」とのこと。やや水過剰であるらしい。(その時にもらった解説書はその後の指針にもなっている。)
彼女はちょうどそのとき、あるヒプノセラピーのスクール(グループ)の過程にいて、「ちょうど来月、生徒による練習セッションがあるので、良ければその被験者になってほしい」とのことだった。
おまけにそのスクールが定期的に発行している冊子の送付手続も彼女がしてくれることになった。
結局、その練習セッションを、現在 長野を中心に活躍中のT氏から受けさせて頂いた。

彼女との出会いは今から振り返っても僕の今の流れにとても大きな位置を占めるのであるが、これにより、僕の気持は一段と’セラピストへの修業’の方へと向いていった。
彼女が学んでいるグループでのスクールか師匠による一対一の個人スクールか、どちらにしようか随分悩んだあげく、師匠による’プロフェッショナルヒプノセラピスト養成コース’を選択した。

(後に、彼女が手配してくれた冊子のお陰で、’関野直行’氏に出会うことができた。関野氏はその冊子の中で、’アメリカセドナツアー’の参加者を募っていた。’セドナ’は以前、山川紘矢&亜希子ご夫妻訳の’第十の予言 ポケットガイド’で知っていて、とても興味を持っていた場所だった。是非一度は行ってみたいな〜と思いつつ、その当時、定期的に取り寄せていた’関野あやこ’さんの’宇宙からのおくりもの’というテープの案内の情報で、時折 あやこさんがセドナツアーを企画されていることは知っていた。それと機を同じくして、彼女が手配してくれた冊子のお陰で’関野直行氏によるセドナツアー’に出会うことができたのだが、そのときまだ僕はお二人が’ご夫婦’だなんてまるで知らなかったぁ〜。(笑))

(おまけに、彼女にはその後、’トレガーワーク’というボディワークの練習セッションもしてもらったのであるが、ちょうど1999年の12月に’関野直行氏によるセドナツアー’に参加した時にも、その冊子の一番下にとても小さく書かれていた’トレガーワーク’という文字がとても気になっていたのだ。当時は「ふぅ〜ん、’トレガーワーク’っていろんなところでやってるんだなぁ〜」 くらいにしか思っていなかったのだが、それが実はつながっていたことをセドナツアー中に知ることとなる。さらにそれが2000年GWの伊豆高原でのトレガーワーク初級コースの受講へとつながっていくのである。)
 *注:当時は’トレガーワーク’という呼び名が一般的だった。(現在は’トレガーアプローチ’)

現在のOffice CHUの根幹のセッションである’ヒプノセラピー’と’トレガーアプローチ’との出会いにこれほど深く関わってくれた彼女には深く感謝している。それとともに、’セラピスト’としての人生を決意させてくれたのも彼女の力が大である。(もちろんそれを支えてくれた かみさん(現Office CHU事務局長)の理解とサポートが最大であるのは言うまでもないが。。。)

ちなみに彼女が以前書いてくれた手紙の中にあるのだが、’またどこかで同じ仕事をしていく仲間として再び出会える日が来る’のを楽しみにしている。ちなみに彼女と会うきっかけを作ってくれた男性Oさんとは定期的なタイミングで会うようになっているみたいだ。

(これ以降も大切なタイミング毎に僕を次のステップに導いてくれる人が目の前に現れてくれる。ほんとうに心の底から’出会いに感謝!’)

 〜一つ下につづく〜

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(5)「自分自身と出会う永遠の旅」 〜すべては自分〜 1999年末〜2000年初

いろんな経緯を経て、天職を’セラピストになること’とし、松下を退職すると決めてから、さらにいろいろな流れを感じることができた。 またそれはちょうど2回目の休職期間とも重なっていた。(感謝)

師匠が当時属していたSEIVAで出会った別の女性Mさんの紹介で、いろんな場を経験することになった。
’ハーモニー・スタディ’という自己啓発セミナー、’笑顔セラピー’など、今思うと現在のOffice CHUの活動の大きなエネルギーの一部となっているものが多い。彼女とは最近掲示板で再会できた。(笑)

また前回書いた、’関野直行氏と行くセドナツアー’は僕にとって、忘れられない旅となった。
セドナは簡単に言うと、男性性のエネルギーと女性性のエネルギーの両方を兼ね備えたところだ。
中でも’ベルロック’という実現化のエネルギー(男性性)を持った山に仲間2人とシュラフで一夜を明かしたのは印象的だった。 ちょうど1ヶ月前に退職を決意し、自分の新しい道へ意識を新たにスタートしようとしている時期であった。自分のそのときの感覚を十二分に味わい、これから3年〜5年後の実現化したイメージをベルロックのサポートをもらって、必死に深めようとしていた記憶がある。

セラピストになるための修行・トレーニングは着実に進んでいった。師匠の矢加部幸彦氏による’プロフェッショナルセラピスト養成講座’並びに’レイキヒーリング’、またアメリカのインストラクターによるトレガーアプローチ資格取得トレーニング など 今から思い返しても、将来のクライアント(お客さん)と接する上で、’心’の面、’身体’の面、そしてその二つをも包含する’エネルギー(気)’の面、これら3つの要素から’人間’という存在とかかわろうとしていたように思う。

現在のOffice CHUの基盤である「自分の身の周りの出来事・人間関係・環境はすべて、本来のありのままの自分を知るためのものである」 というのはきっと当時から感じていたことだと思う。
それだけに’心・身・気’からのセラピストになるためのトレーニングはまさに文字通り ’自分自身と向き合い続ける、いわば 自分にごまかしの効かない歩み’となっている。
いろんな出来事との出会い、いろんな人との出会い、いろんな環境との出会いが そのままそっくり、「自分自身の中にある’無限の可能性’の一部に出会う旅」となっている。

この旅は’永遠’のもので決して終わりのないもの(実際終わりがあると面白みがない:笑)だと感じている。しかし、やさしい自分・やわらかい自分・自信のある自分などど比べ、頑固な自分、激しい自分、元気のない自分なども まさに’ありのままの自分自身’と感じるのにはそれぞれたくさんの時間がかかるものだなぁとしみじみ思う。

念のため、「自分自身の中にある無限の可能性の一部に出会う旅」とは、つまり、今の自分には’それが自分自身であるとは思っていない(意識の向いていない)部分’に出会うということであって、それは当然のことながら、’今の自分にはわからない部分との出会い’ということになる。セラピストの修行は’自分の中のできない部分に出会う旅’でもあると、最初に師匠に教わった記憶がある。

 Office CHU開業6年目にして、ようやくそれらのことがしっくり感じられ始めているのではないか?という感じである。 一瞬一瞬変化、進化を繰り返し、少しずつ自分自身の中の’未知の部分’と出会い続けるという永遠の旅、 もしかしたらこれがやりたくって、この世に生まれてきたのかも?(笑)

〜一つ下につづく〜

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(6)「自分を支える無数のサポート」 〜有形・無形のいろいろなサポートの形〜 2000年初〜2003年末

2000年1月末を持って、約10年間勤めた松下電器を退職した。

1999年末の二回めの休職に入ったきっかけは、仕事中身体が動かなくなる(=今の解釈では、人生の方向転換をするようにという身体という無意識からのメッセージ?)ということだった。
でも実際、前回の休職が二ヶ月以上、ほぼ寝たきりの生活になってしまうほど疲れ切っていたのに比べ、今回は休職の一日目からなぜかすっかり元気になってしまった。様子を見に来て頂いた上司に対し、’どうやって演技しようか?’と思うくらい(自分でも不思議なくらい)元気だった。(謝)
(もしかしたら上司には演技がばればれだったかも?でも自分にとっては元気だと思われると仕事に復帰できると思われてしまうと困るので必死にしんどい自分をアピールしていた。: 笑)

2000年1月末の退職と同時に ヒーリング・セラピー Office CHU の開業ということに決めた。
当時はセッションメニューと言っても、’レイキヒーリング’のみだったが、自分なりに名刺やチラシを作って、その中に自分の将来のビジョンを思いっきり表現してみた。
2001年の前半にヒプノセラピーとトレガーアプローチのプロの資格を揃って取得することになってから、さらに活動を加速させた。年内にホームページや資料一式を整え、旧友や知人宛に約700通のDMと体験無料チケットを添えた。

特にヒプノセラピーを中心にして、開業前の練習セッションなどでは、かなり良い感触を得ていて、自分なりにあとはPRするのみだと考えていた。し・か・し、そんなには甘くなかった。。。

ある体験セミナーをきっかけに知り合った女性Kさんが唯一の実際のお客様である時期が長かった。つまり’彼女がいなければOffice CHUとしてのセッションができていない’と言えるほどの状況だった。

2002年に入ると、いよいよ貯蓄が尽き始めて、ほんとうに危機的状況に陥っていた。
新年の挨拶、えべっさんへの祈願など 思いつくばかりのお祈りをすませて、節分前の1月末だった。
’鬼っ子診療所’という生駒の山頂にあるセミナースペースにて出会った男性Kさんとのご縁をきっかけに、必然的にフットケアサロンのオーナー女性Tさんと出会い、それから隔日で奈良でセッションができる流れを頂いた。 そこではお客さんとのコミュニケーション、ヒプノセラピーやトレガーアプローチの一般の方へのPRのコツ、新しいスクールの開発、チラシ&DMの作成方法など いろんなノウハウを学ばせて頂いた。
当時はお世話になっていながらプライドが高く、生意気で 今思えばたくさんの無礼を与えてしまったと大反省している。今なら少しはオーナーの経営者側の立場がわかるような気がする。
いろんな意味でずいぶんたくさんの経験と気持ちを頂いた場所である。きっといつかお返ししたい。

2002年は他にもいろんな経験をさせて頂いた年となった。GWにはトレガー仲間とのご縁で、四国の宇和島への出張セッション、皮肉なものでトレガーメンバーのお通夜をきっかけにはじまった 伊豆の修善寺のヒーリングスパでのトレガープロジェクトなど 新しい流れ、そして今後に生きる経験をたくさんさせて頂いた。 当時は有形(形の見える)のサポートしか感じられなかったが、今思うと無形(見えないところでの)サポートも随分と頂いていたように思う。ほんとうにありがとうございます。

2003年はいろんな偶然を経て、現在の関西のトレガーメンバーのキーパーソンともなっているT夫妻との出会いもあった。 彼らとの出会いの場となった金沢出張セッション、それに6月からは月の前半に京都のスペースを借りてセッションをすることにもなった。さらに同月から数ヶ月毎に 弟の仕事のパートナーのいとこからのご縁で埼玉で出張セッションを繰り返しさせて頂くご縁も頂いた。(その後何度か女性Tさんのお知り合いの方々へセッションさせて頂くことになった。合掌)

いろんな方からの有形・無形のサポートを頂いて、Office CHU 並びに小生(CHU)自身も日々成長させて頂くことができました。 この場をお借りして、今までサポート頂いた多くの皆様に感謝したいと思います。いろいろとお世話になったみなさん、ほんとうにありがとうございました。

まだまだ学ぶことはたくさんありますが、最近少し感じられるようになってきたのは、’無形’、いわゆる目に見えない形でのサポートがどれほど大きいものであるか ということだ。

これは小生が最初の休職の際に感じた、’見守る’’信じる’’様子を見る’といったようなことだが、こういった無形のサポートを感じられなかった自分がどれほど’豊かでなかったか’を痛感させられている今日この頃である。 もっと言うと、サポートはいつでも自分の周りに十分与えられているのだ、あとはそれに対して自分自身がどれだけ意識を向ける(扉を開く)ことができるか? その一点に かかっているような気がする。’受け入れないことをやめる’、あるいは与えられているものが自分の(意識的な希望に沿うかどうか?などと)’より分けることをやめる’、そういうことかもしれない。。

それが有形でも無形でも、自分が望んでいないと思っていたものでも、もっと深い自分自身のレベルでは’いつも何時も 「それでいい」 という内容のものなのだから’、そしてそういう風に思うかどうかでさえも、私たちは個人個人ひとりひとりで自由に決めることができるのだから。。。
そんな風に自分自身を捉えてみるのも面白い。

毎瞬毎瞬、絶え間なく流れ込んでくる、有形・無形の無数のサポートに深く感謝!!

〜一つ下につづく〜

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(7)「目に見えない導き」 〜すばらしい出会いの数々〜 2001年夏〜

2001年の夏、来日していた野崎友璃香さんからの連絡で、彼女の友人宅で、トレガアプローチの個人セッションをさせて頂くことになった。 またちょうどそこで健康食品のホームパーティを開催しているとの事で、それにも参加させて頂くことになった。
もともと彼女とは’トレガーアプローチ’の中級コース(現レベル2)に参加するため、ハワイ島まで来ていたときに関野直行氏にご縁を繋いで頂いた方だ。
普段ハワイ島などでイルカと泳いだり、穏やかな気候の中でのびのびと過ごしている彼女に、運よく練習セッションをさせて頂くこともできた。 ちょうどこの年の5月にプロの資格を取得していたので、結構 なりたてほやほやの時期だった(笑)

ホームパーティとセッションが終わり、確か小原大典氏による13の暦のミニセミナーが始まる前に(と簡単に言ってるが今思えばすごい人が集まっていた場だったなぁ:笑) 参加者の一人の女性Hさんと出会うことができた。
少し自己紹介を交わすと、彼女はなんと!僕のOffice兼住居の隣駅の社宅に住んでいるとのことだった。
Office CHUの活動にもとても関心があるとのことで、それを機にいろんなやりとりが始まることになった。

2002年に入り 彼女の社宅の中のフリースペースでのイベントに参加させて頂く流れになった。
そこでも運よく今でもつながりのあるたくさんの友人たちとの出会いを頂くことができた。
イベントの内容は岡山の女性Nさんによるホームパーティや広島の女性Mさんによるワークショップだった。
そのワークショップに参加していたのが、後にOffice CHU 滋賀スペース オーナーとして一時期活動を
共にすることになる emichaさん(現 ヒーリングサロン イルチェーロ オーナー)だった。

彼女と自己紹介を初めて交わしたとき、彼女のココロの中で何か僕との奥深いつながりを感じられたようだった。
その後もいろいろとやりとりしていくうちに、Office CHUのヒプノセラピーのセッションを受けて頂くと共に’ヒプノセラピー’を学んでいきたいという流れになっていった。

しかし当時はまだヒプノセラピー・スピリチュアルセラピーの認定を頂いてからわずか1年半しか経っていなかったので、「将来的に個人スクールを開講したい」と思ってはいたものの、まだほとんど準備が整っていない状況だった。
そこで相談の結果、今回のヒプノセラピーのスクールは、’学んで頂くと同時にカリキュラムそのものができあがっていく’ という流れにて始めることになった。
約1年のスクールの後、Office CHU卒業の第一号ヒプノセラピストが晴れて誕生した。(祝♪)

emichaさんとの出会いは、振り返ってみると僕自身にとって、’一対一の関係性’の学びをいろいろと頂けたものと感謝している。
師匠と弟子(現在は対等♪)の関係、Office CHU代表とスタッフの関係、特に2003/6〜2004/12は修善寺のヒーリングスパの社長Kさんとのご縁による ’Offce CHU京都スペース’の運営などについて、いろいろとミーティングをさせてもらった時期でもあった。 そして2005年夏には’Office CHU滋賀スペース’がオープンし、セラピストの男女両性での体制が出来上がった。

その後、晴れて2006年12月に’ ヒーリングサロン イルチェーロ’として独立されるまで、発展途上の僕のいろんな受け皿になって頂いたよう感じています。(面と向かっては照れくさいので:笑)この場を借りて  「ありがとうございました」 (感謝♪)

当初emichaさんからのリクエストで始まったヒプノセラピーのスクールは、三重の伊賀から毎回通ってくれた男性Kさんとの数年に渡るスクールを経て、晴れて’Office CHUスピリチュアルセラピースクール’として立派な(自画自賛:笑)テキストまで完成することができた。
またその後、長年の念願であった基礎部分の’グループ講座’を2008春に開講することができた。 (感謝♪)
*コミュニケーション講座(カウンセラー基礎講座)

さらに福岡の兄弟弟子(女性Mさん)とのご縁で、2006年秋以降に活動をはじめた NPO法人 日本パーソナルセラピー協会(JPTA) 大阪支部主催の NPO法人認定資格として、’Office CHUスピリチュアルセラピースクール’の’カウンセリングコース’と’ヒプノセラピーコース’が位置づけられたのも emichaさんと男性Kさんによる多大なサポートのお陰である。(合掌)

「人との出会いによって’新しい形’がひとつひとつ生み出されていく〜♪」

そんな自然の流れに感謝☆ いつも大いなる導きをほんとうにありがとうございます。(合掌)

〜一つ下につづく〜

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(8)「自分が周りとつながるとき」 〜自分自身の中心・コア・原点〜 2004年〜

2004年になって、自分自身の修行がより本格的、かつ実践的になってきたような気がする。
1月のハワイでのトレガーのワークショップサポート、結果的に海外でのワークショップのコーディネイトの経験とかつ、ハワイ島というとてもピュアなエネルギーの満ち溢れる中での自分自身と周りの関係性の学び。。 結局、これを機に久しぶりに半年ほどエネルギーの低下した状態(プチうつ?)に入るのだが、それも、自分自身への意識をもう一段深めるための大掃除であったようだ。

なんとか7月のハワイ島(これまた同じ場所!)でのアメリカトレガー協会の年次総会(現在日本はアメリカの協会に属している)前にはなんとかエネルギーが戻り、ほぼ元の状態に戻ることができた。

将来の日本の協会設立のための情報集め、アメリカの主要メンバーとの顔合わせ、などが今回の訪米の主な目的だった。 英語には少し難があるがアメリカの錚錚たるメンバーが集まる会議に参加したのはとても有意義だった。(日本からは6名も参加した)

帰国後、いろんなことを考えてみた。 「前半の半年にあんなに苦しんだ原因はいったい何だったんだろう?」 「あのとき自分にはいったいどんなことが起こっていたんだろう?」 。。

いろんなことを考えた結果、結論は、’ただ(周りを意識しすぎて)自分自身でいなかった’ということだった。 
一番、エネルギーが低下しているとき強く思ったことは、「今の自分には’自信’というものが全くない。’自信’というものはいったいどうすれば感じられるのだろう?」いろいろ考えた末に、結局、「今の自分にできること(=自分が’自信’を感じられること)は’歩くこと’しかない!」 ということで ある日、公園を4〜5時間近く何周もしたことは記憶に新しい。

2004年の一年間で学んだことは、
自分の中心とは? コアとは? 原点とは?
という言葉に集約される。。

言い換えると、「自分がこの世の中という場(エネルギーフィールド)で一番心地よく過ごすことのできる ’リズム’、’ペース’、’スタイル’って何?」 ということになるのかもしれない。

僕の例を取ると、(プロフィールにも紹介しているが)

「丁寧に、ゆったりと、静けさの中で」 「天真爛漫

よりわかりやすく言うと、オーケストラの楽器の調律&演奏みたいなものかな? たとえば自分がバイオリン奏者だとすると、このバイオリンはどんな音域に調律してやると、一番そのバイオリンが元々兼ね備えている個性・特性が発揮できるのかな? そしてこのオーケストラの中ではどんな風に演奏すると より周りの音(流れ)と調和することができるのかな? 

それぞれの人が元々持っている、その人固有の中心(感覚)、リズム感、ありかた、こだわり、コミュニケーションのスタイルなど、それこそ’自分にしかわからないコアの感覚’を感じ取って、いつも原点からはじめてみる。。 

そこにはきっと、私たち人間が生まれる前から与えられている ’周りとつながった感覚’ が感じられることだろう。 そしてその瞬間の自分に意識を向けてみると、そこには自分が長い間探し求めていた’(真の)自分らしさ’が見つかるのかもしれない。 少しこのあたりをより深く探っていければ面白そうだなぁ〜という感じ〜。。

〜一つ下につづく〜

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(9)「周りと共にあるということ」 〜自分自身であり続ける〜 2005年〜

自分にしかわからない感覚を使って、自分にしか出会えないクライアントと、 自分にしか感じられない時空を共有させてもらう。。。
そしてクライアントを通じて、自分自身の未知の部分を感じさせてもらう。。

すべては 自分にしかわからない世界。。。 
そのプロセスの途上には孤独に感じることも多い。。。 
誰かと比べてへこんでしまうこともある。。。
でも、でも、真実は ただひとつ。。。

自分にしかわからない感覚。。。
ときにはそれは たよりなく、細く、今にも折れそうに感じるかもしれない。。。
でも それは元々そういうものなんだと知ればよい。
人間とは元々そういうものなのかもしれない。

自分以外には世界中の誰一人も感じることのできない 正真正銘の自分だけの感覚。。。
それがひとりひとりに与えられた大いなるプレゼント。。。 なんて自由な世界なんだろう!

さあ、感じてみよう! 自分にしかわからない感覚を。
自分にしかわからない感覚にほんとうに自分が意識を向けている瞬間を!
そのときにはきっと周りにたくさんの仲間がいることを感じるだろう。。

なぜならそこが自分の本当の居場所だから。。。

それがほんとうに、自分が周りとつながることのできる場所だから。。。

周りにいてくれるみんな、ありがとう!

〜一つ下につづく〜

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